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明日の朝も、この歌で生き延びられる。(大森靖子「TOKYO BLACK HOLE」表題曲の歌詞に関する考察)

大森靖子メジャー2ndアルバム「TOKYO BLACK HOLE」の表題曲が好きだ。


大森靖子「TOKYO BLACK HOLE」MusicClip

Youtubeを貼ったけれど少しでも気になった人はアルバムを手に取ってくれ大森さんもそれを望んでいる頼む名盤だから頼む)

 

inuiset.hatenablog.com

 以前に書いたこの記事で、大森靖子は、これまでは女の子である「私」を主人公とした歌を多く歌ってきたが、「TOKYO BLACK HOLE」では男の子である「僕」を主軸とした歌詞も書くようになったという指摘をしてみた。そして、この表題曲「TOKYO BLACK HOLE」も、「僕ソング」の結実の一つだと考えている。以下に歌詞を引用する。色わけの理由はあとで。

ZERO SONGS 
駅前開発で駄菓子屋が潰れた
水風船の爆弾で
僕がこの街を壊すはずだった
ビル風 スカートが浮かぶ
赤い染みのパンティと目があった
 
ZERO SENCE
体育倉庫で 僕の裸が
君を想って捩れる動画が
あいつから届いたんだってね
痛みがわかるよだなんて
弱い正義で今宵射精 やるせなさ
 
街灯 はたらくおっさんで
ぼくの世界がキラキラ
人が生きてるって ほら
ちゃんと綺麗だったよね
 
夜の海 水面をうつろう光に飛び込め
この街は僕のもの
 
時がきた今 捉えてよ今
捉えてよ 今すぐに消えちゃう全てを
歌っていくのさ
地獄 地獄 見晴らしのいい地獄
 
HELLO HATE
僕が死ねばいいと願った奴は
一人残らずいつか必ず死ぬだろう
忘れるさ
 
最初から希望とか
歌っておけばよかったわ
忘れたわ
 
愛さない認めない
変わらないほうが失くさない
輝きは特別は青春は剥がれていく
ボロボロになっていく神様になっていく君が 透明な銃放つ自由
 
時がきた今
 
朝には朝の 夜には夜の 挨拶を
愛し方を 繰り返すだけ
 
街灯 はたらくおっさんで
ぼくの世界がキラキラ
人が生きてるって ほら
ちゃんと綺麗だったよね
 
君と僕手を繋ぎたった一秒生きのばす
同じ朝を重ねていく
 
時がきた今 捉えてよ今
捉えてよ 今すぐに消えちゃう全てを
歌っていくのさ
地獄 地獄 見晴らしのいい地獄
いやあ、それにしても長いね!
 
この曲はポップソングにしては長く、複雑な構成だと思う。しかし、それだけの長尺を取っても、とにかく伝えたい表現があるんだという気概を感じる。編曲でメリハリをつけて、フックのある歌詞で突き進んでいく感じが気持ち良い。
5分半を物ともせずに攻める曲構成は、大森さん自身の既発の曲なら、ピンクトカレフver.の「歌謡曲」を思い起こさせるし、大仰かもしれないけれど、壮大なロックオペラとしてQUEENの「ボヘミアン・ラプソディ」が遠くでちらちら見えてくるような気もする。
(個人的には、2番のAメロの「ZERO SENCE…」の所で、エレキギターのブリッジミュートが入ってくるのがグッと締まって好き。)
 
話がズレた。歌詞のことを言いたかったんだ。
ぼくは、この曲が前半・後半の2パートで出来ていると解釈している。前半が青文字部分で、後半が紫文字部分。その2つを赤文字部分が繋いでいると考えている。まずは青文字部分の話から…。
 
<前半:「僕」パート(青文字部分)>
これは「TOKYO BLACK HOLE」という曲の中に創造された「僕」が独白をしている歌詞だ。彼は、思春期が始まったばかりの少年なのかなと思う。「駅前開発で駄菓子屋が潰れた」ことや、この街を壊すための武器として「水風船の爆弾」を想起していることから、まだ駄菓子や水風船が最近まで身近だった年齢だったと想像できる。
一方で、彼の中に芽生えている性衝動(「赤い染みのパンティと目が合う」ことや「君を思って僕の身体が捩れる」ことや「今宵射精」すること)と、破壊衝動(「この街を破壊する」ことや「夜の海に飛び込む」ことや「死ねばいいと願う」こと)が読み取れることから、既に子供と呼べる年齢ではないだろう。
 
個人的なイメージでは中学1年生の夏、って感じだ。
着慣れない制服に袖を通して、周囲の環境が少しずつ変わっていくあの季節。
 
小学校の時に、僕の秘密基地でもあり、逃げ場所でもあったあの駄菓子屋が、駅前開発で潰れてしまった。僕の大切な場所を破壊してしまうこの街なんて、僕が投げる「水風船の爆弾」で壊れてしまえばいいと思った。
それはともかく、最近気持ちのコントロールがつかない。目の前を歩いている君のスカートが、ビル風で巻き上げられて、赤い染みのついたパンティが目に入った時から、僕はなんだか抑えられない気持ちになっている。
 
学校ではいじめられている。
今日もあいつらが、僕を体育倉庫に閉じ込めて、僕を裸にして自慰を強要した。しかもその動画を君に送りつけたってね。
君は僕に同情してくれた。「痛みがわかるよ」だなんて。
でも、僕はその言葉さえ、今宵射精するための衝動に堕してしまう。
僕の身体が君を想って捩れる、その事実は変わらないのだから。
 
初めて、夜中に家を抜け出した日。
あてもなく歩いて、東京の街灯りはどこまでも続いていて。
夜中に工事を続けるはたらくおっさんの頑張りで、この街が出来ていると思うと、妙に世界が愛おしくキラキラと見えてきた。人が生きてるって、ちゃんと綺麗なのかもしれない。今ならこの、真っ黒な夜の海にも飛び込めそうな気がする。この街すべてが僕のものになるような全能感。今、今こそ。
 
ここは地獄だ。僕の中には憎しみがある。
でも、僕が死ねばいいと願った奴らはいつかみんな死ぬ。
すべてはゼロになっていく。

 

こんなストーリーを妄想してしまう。

 

ずっと、いじめや性や苛立ちの中で生きる「僕」が、サビで「人が生きてるって ほら ちゃんと綺麗だったよね」と感じる時に、気持ちが和らいで「ぼく」というひらがなの表記になることを、指摘しておきたい。

大森さんは「かけがえのないマグマ」を刊行した時に、「ひらがな・カタカナ・漢字の表記のバランスについては意識している」という発言をしていたから、ここの「ぼく」という表記も、歌詞の主人公がふっと救われる様を表現したものだと推察する。的外れかもしれないけど、それはそれで。

 

さて、ここまで順調に「僕」の綴る、荒れ狂う思春期のような歌詞について妄想してきたのだけど、突然ここで壁にぶち当たってしまう。それが次に言うブリッジの部分だ。

 

<ブリッジ:「???」パート(赤文字部分)>

「最初から希望とか歌っておけばよかったわ 忘れたわ」

おやおや!?

ここで突然、「僕」が述べてきた物語とは飛躍してしまう。「僕」は別に、歌についてどうこう言う登場人物ではないはずだ。

というか、ここの歌詞には元ネタがある。たぶん。

 

「最初から希望とか歌っておけばよかったのかもしれないけど、こうやってややこしい遠回りをしてきたからこそ、わたしの歌に共感してくれる人もいるから、これでよかったのかもしれない」

これは大森さんが産休に入る前、シングル「マジックミラー/さっちゃんのセクシーカレー」リリース時の、新宿タワレコでのミニライブ中のMCだ。大体の記憶で書いているので、一字一句は合っていないけれど。

この発言の前半だけが、歌詞になっているのではないだろうか。歌詞になっている部分にだけ着目すると、これまでの自分の歌を唾棄しているようにも見えるけれど、真意はきっと、リリースイベントの時のMCの後半部分にあるのだろう。(そして、遠回りをしてくれたからこそ、大森さんの曲が好きな、ぼくみたいなファンが、グッときてしまうのだ)

 

つまり、赤文字で示した歌詞は、「大森靖子」パートだ。

ここで突然、大森靖子が現れて、歌詞の中の「僕」と出会う。

もちろん「僕」は、歌の中で大森靖子が創造した人物なのだけれど、ここで創造主と、被造物が、歌詞の中に並列されることで、歌の厚みがグッと増すのだ。

もしかしたら、コーラスで、オクターブ違いのユニゾンが多用されているのも、「僕」の歌と「大森靖子」の歌が絡み合っていく様を表現しているのかもしれない!(これはさすがに考え過ぎだと思う)そして…

 

<後半:「君と僕」パート(紫文字部分)>

歌詞に「大森靖子」が登場したことによって、ドラゴンボールフュージョンよろしく、「大森靖子」の歌と「僕」の歌が、ここから絡み合いもつれ合い、怒涛の勢いを増していく!と思う!

たとえば「愛さない認めない 変わらないほうが失くさない 輝きは特別は青春は剥がれていく」という歌詞は、大森靖子が考えていることとも、作中の「僕」が言っていることとも捉えられる。
 
一方、その次の「ボロボロになっていく 神様になっていく君」という歌詞には元ネタがある。これはキネマ倶楽部でのワンマンの時に朗読された、増田ぴろよからの手紙の一節「大森靖子についていきましょう。27歳という女盛りに、身を削って神様になってくれる彼女に…(後略)」から取られたのかなと思う。
つまり、ここで「君」と表現されているのは大森靖子自身のことで、「君には透明な銃を放つ自由がある。時は来た今!」と彼女を鼓舞しているのは、作中に登場する「僕」なのではないだろうか。
 
 
だんだん、フィクションとして作られているはずの「僕」と、ノンフィクションであるはずの「大森靖子」の境界線が曖昧になっていく。この溶け合っていく様が、この曲の歌詞の抜群にキモチイイところだと思うのだが!どうだろう!
 
さて、このあたりから「朝には朝の」という部分や「同じ朝を重ねていく」というように「朝」というキーワードが現れ始め、夜の街をさまよっていた「僕」に、光が差していくような描写がされ始めていく。
それは、被造物である「僕」にとっては神様にも似た存在の、あるいは愛し愛される対象としての「君(=大森靖子)」が現れたからなのかもしれない。
 
そして、「君と僕」という「つがい」になった二人は、「手を繋ぎ1秒1秒を更新していくこと」を、「挨拶と愛を繰り返していつまでも次の朝を迎えること」を確かめあえたのではないだろうか。
きっと、その時に見える「ぼくの世界」や「見晴らしの良い地獄」は1番で歌われたものとは違う意味を持つものになるだろう。なぜなら、「僕」だけの世界と、「君と僕」がいる世界では、すべてが違って見えるのだから。
 
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<つまり、どういう事なんだろう?>
つまり「TOKYO BLACK HOLE」という歌を、無理やり枠にはめるとするなら、「僕」が「君」と出会って希望を見出す曲と言うことが出来るかもしれない。
でも、そんな一言で片付けてしまっては、まさに「最初から希望とか歌っておけばよかったわ」なわけで、歌は聴く人によって解釈が異なり、しかも正解が無いのだから、是非あなたもじっくり味わってみてはいかがだろうか。
 
ぼくは、個人的には、この曲を「思春期を迎えて、自身の性と破滅的な衝動に振り回される「僕」が、夜の街で彷徨う一夜を通して「君(=大森靖子がその役目を担う)」と出会い、希望を見出す歌」と解釈した。
 
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大森さんは「TOKYO BLACK HOLE」というアルバムを通じて「第ゼロ感」(全感覚が削がれたとしても最後に絶対に残る感覚。生きていく力そのもの)を、聴いた人の中に育てたいという意味のことを言っていた。
 
大森靖子「TOKYO BLACK HOLE」インタビュー (1/4) - 音楽ナタリー Power Push(参考2:アルバムリリース時のナタリーのインタビュー)
 
また、「ゼロ」という言葉からは、この曲に現れる「街の破壊」や「見晴らしの良い地獄」というフレーズを介して、9.11のグラウンド・ゼロも想起させられる。
大森さんは、阪神淡路大震災や、9.11、3.11を体感して生きてきた年代だし、すべてがある日突然破壊されて、ゼロになってしまう日が来る、という実感を持っているのかもしれない。僕は年が近いので、似たようなことを感じる時があるけど。どうかな。
 
それでも生き延びることができる力を、音楽という芸術によって、リスナーに、あるいは十数年後に思春期を迎える息子に、伝えたかったのだろうか。
そう考えると大森靖子による被造物である「僕」って、まさに息子のことでは?ってところにまで妄想が及んでしまうけれど、それは飛躍しすぎているのでやめておこう。
これできっと、明日の朝も、この歌で生き延びられる。