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日記24

9/4
一日中寝ていた。


9/5
休日。一日中寝ていた。
一日中寝ているような日はろくなことが起きないし、ろくなことを考えない。夕食後にビールを飲んだら急に何もかも面倒くさくなってきた。
面倒くさいという言葉からは死の香りがする、といつも思う。「面倒くさいから」という理由で破棄できるものがあまりにも多すぎる。できるだけルールに縛られずに生きたいと思っているけれど、「面倒くさい」という言葉だけはできるだけ避けて暮らすようにという線引きを自分に課している。何もかもを否定する負の力が強すぎる。でも、今日はとにかく何もかもが面倒くさかった。そう感じる日はそうなんだから仕方ない。リハビリも、病気も、仕事も、人間関係も、音楽も、インターネットも、顔も、身体も、何もかも、全部面倒くさかった。


9/6
面倒くさい面倒くさいと思いながら、寝て、深夜に目が覚めて、また寝て、起きて、睡魔に殺され続けているような酷い寝覚めで、半分眠りながら職場に向かおうとしたら、乗り口と降り口に階段がついている旧型のバスがきた。乗車と降車に数段苦労して、今日は職場のエレベーターも使えないと聞いていたから、階段をあがって部署まで行ったら、始業後に設備担当の人に「そんなこと言いましたっけ」と言われた。少しずつ、少しずつツキの悪い日だ。どうでもいいや。雨が降ってないだけましか。
午前の業務を、ものすごく省エネで過ごした。総務からまわってくる厚生施設の資料や、外部から届けられた自分の業務に全然関係ない資料を、微糖のコーヒーを飲みながらゆっくり読んだ。午後は舞い込んでくる仕事にだけ注力して、たっぷり積み残しをつくって定時1秒で帰宅した。リハビリはサボった。今にも大粒の雨が降ってきそうな曇天に追われるように帰ってきたけれど、曇天の暗がりが深くなるばかりで、雨はなかなか降りそうになかった。偽物の畏れと脅かしに振り回されている。何かを暗示しているみたいだ。それが目につく、ということは、自分の精神状態を反映しているんだろう。国語の「物語文」の読解法と一緒だ。石原千秋という人の本を読むと受験国語がものすごく分かるようになったよ。その情報を求めているこの文章の読み手なんて居なさそうだけどね。数学は「単問ターゲット」をやったら結構分かるようになった。この情報も、きみにとっては後の祭りだろうね。ついにホールデン・コールフィールド風の口調になってしまった。まいったね。

食事を出来るだけ軽めに摂って、薬を飲んでアイスを食べて横になった。目が覚めたら午前3時で、また明日の寝覚めに支障をきたしそうになっている。悪いサイクルが回り続ける。もうすぐ交通事故に遭う運命を知らずに走り続ける車みたいに。


9/7
風邪をひいたりすると鼻水がミズッパナからアオッパナに変わる。その原因は体内で働いた白血球の死骸だそうだ。日記に書く文章の粘度や色合いが変わることも、体内で働いた心の死骸がそうさせるのではないだろうか。今の自分から出てくる言葉はアオッパナだ。バッチィね。
iPhoneの保護シールの粘着力が弱まって、ずるっと剥がれてしまった。画面が割れてしまうのが怖いので早く新しい保護シールを買いたい。
今日もバッテリーの上がった車のような仕事ぶり(つまり動かない)で敗残兵のように退社した。でも心理的な混乱は少しましになってきた気がする。日中は、自分はこの会社に必要な存在なのだろうかと自問自答していた。客観的に考えると、自分のいる事業所の、自分が担当している部門は総合職がぼくしかいないので、居ないと短期的に困ると思うし、サラリーマンなんて歯車なのだから替えが効くことがひとつの機能であるべきなので、長期的には困らないはずだった。数年前に突然死んだ人とかもいたけど、それでも事業自体はちゃんとまわっていた。過労死ではない。
次の週末に何の予定も無いのがそら恐ろしくて、月曜に休みをくっつけて「三連休はどこかに旅に出よう」ということを決めて、気をなだめた。もし実際何もできなかったら、痛手が大きいかもしれない。本当は過去にもすがらず、未来の希望にも頼らず、今をありのまま受け取って掌に乗せて享受するべきなのだと思う。でもそういうことが出来ない時は何を使ったっていい。心理的増強剤にドーピング検査はない。
夜は「まんざら亭 NISHIKI」で会食をした。

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