日記35

10/22
うたた寝をして午前0時に目が覚めると酷い偏頭痛になっていた。数時間、頭痛と吐き気に苦悶して、首筋とこめかみをペットボトルで冷やして、どうにか数時間眠れた。

週末は東京に行こうと思っていたけれど、この体調ではということで見送りになった。

一日中寝ていた。

10/23
子供の頃はテレビゲームを買って貰えなかった。その代わりに、ゲームの攻略本を買って貰うことは許されていた。マリオ、ドンキーコングロックマン。様々なゲームのコースを、キャラクターを、アイテムを知り、隠し通路を知り、コマンドを知り、その知識を使うことはほとんど無く終わった。(後々にゲームをすることを許されて、報われた知識も幾つかある。)

その後の人生の、受験や就職活動においても、実際に行動するより綿密に「攻略情報」を下調べして、少ない労力でここまで進んできたような気がする。軽量入試の私立文系学部を探して、偏差値が一定の基準を超えるものを選んで受験して…とか、そんな感じ。詳細はともかく、未だにその癖が抜けない。映画のレビューサイトを参照して、面白そうな映画だけ観に行く。食べログで探した美味しそうな飲食店で、美味しそうなものを食べる。最近はマンションの情報を集めることが趣味のようになっている。

この傾向の持つ弱点は、体験と実感が伴っていないことだ。自分で好きなものを選ぶ能力に欠けているとも言える。なにより、どうにも言葉にできない「いびつさ」が自分の体の中に潜んでいる気持ちが拭えない。本来、言葉で表せないことが、世の中に沢山あると思う。しかし、まずは誰かに与えられる言語を介した情報でしか認知が作り上げられていない。自分の心を思い描くときに、いつも目に浮かぶのはエヴァンゲリオン綾波レイの部屋だ。コンクリートの朽ちた集合団地に住む人造人間。初めて一人暮らしの部屋を決める時も、壁が片側コンクリートむき出しになっている部屋に強く惹かれて、さすがにそこはやめておきなさいと親に言われたことを思い出す。

あの日、コンクリートの部屋を選んでいたら、いま僕の人生はどうなっていただろうか。いいじゃん、ちょっとくらい思った通りにしたって。

友人、知人の、心象の吐露(=心のゲロ)みたいなブログを読んでいると、育った土地や環境が、この年代になっても影響してくるんだなと思う。残り続けるのは、どちらかというと傷の方か。小さな傷や大きな傷が身体に刻み込まれていって、みんな老齢のゾウみたいな精神に仕上がっていくのだろう。

「老年的超越」という言葉がある。
ライフサイクルの最果て、末期患者や90歳以上の高齢者に、時に訪れる「生きているだけで多幸感のある状態」なのだという。ざっくり言うと。

我々は、とは言わない。ぼくは、もっと、超越していかなくちゃ。目の前のタスクとか、仕事がどうとか、障害がどうとか、精神状態がどうとか、そういったものより、もっと超越した所へ。マンションの坪単価がどうとか、法改正が担当業務に与える影響とか、そういうこともまぁ大事なんだけれど、本当に、本質的に大事なことは、世界のもっと広い場所に、想像を絶する巨大なサイズで置かれていて、目に映るのに認識できない状態で存在するのではないだろうか。

今日は、髪を切りに行った。それだけの日だった。まずは、それだけでもいいと思えるかどうかかな。なんせぼくにはぼくの神様がついているから、最後にはきっと大丈夫だとは思っているんだけど。

さっき使った「もっと超越した所へ。」という言葉は、月間「根本宗子」の公演のタイトルで、初めてちゃんと見た演劇で、すごく面白かったから印象深い。演劇もまた、その場限りの体験と実感のみで、手元に残らない芸術だなと思う。

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